2026.07.07ぶち上げインタビュー

ぶち上げインタビュー「岩戸が開く賑やかさ」へ——幾度の試練を越えた保険代理店代表が、家族と描く「日の丸応援団」の夢。株式会社ベル保険事務所 代表取締役・本間理久さん

「岩戸が開く賑やかさ」へ——幾度の試練を越えた保険代理店代表が、家族と描く「日の丸応援団」の夢。株式会社ベル保険事務所 代表取締役・本間理久さん

静かに、確かに、人の縁が積み重なっている。

この記事の要点

  • 01再起し7年間別の代理店で活動した後、令和元年7月に現在のベル保険事務所を創業した。
  • 02あまり内容は書けないのですが、代理店の代表者が保険業法違反をすると代理店免許が取り消されるので、3人みんな保険が売れなくなって、売上がゼロになる。
  • 03挑戦している人を支えたいのに、自分も挑戦者でなければならないと腹に決めているので、どんどん種をまいていきたい。

※ 人生ぶち上げch編集部が本文をもとに整理した独自の要約です。

静かに、確かに、人の縁が積み重なっている。

株式会社ベル保険事務所の代表取締役・本間理久さんは、東京・板橋の大家族のなかで育ち、最下位近くだった成績を学年トップに変え、20歳で家出を経験し、ITのブラック企業で心を削り、父と設立した会社が半年で消えた。独立の直前には弁護士から内容証明が届き、5人の子どもを抱えながら1年近く収入がゼロになった。それでも今、次男・三男・四男と共に「日の丸応援団」として、お客様の傍らに立ち続けている。

以下、本間さん。

経歴は、実に重層的だ。板橋の教会関係の大家族で育ち、工業高校から東京電機大学(夜間部)に進学。20歳で父と大喧嘩し家を飛び出し、パチンコ屋でアルバイト後にIT企業へ転身。父の誘いで損保業界に飛び込み、父と会社を設立するも半年で廃業。再起し7年間別の代理店で活動した後、令和元年7月に現在のベル保険事務所を創業した。

このインタビューでは、幾度もの「谷」を乗り越えた軌跡と、「岩戸が開く賑やかさ」というミッションに込めた思いを、たっぷり語っていただいた。

■プロフィール

会社名:株式会社ベル保険事務所

役職:代表取締役

氏名:本間 理久(ほんま さとひさ)

ちゃぶ台を囲む15人——「あるもので遊ぶ」が育てた企画力

——どんなご家庭で育ったんですか?

本間さん:東京の板橋で生まれました。うちは教会関係の家庭で、父が10人兄弟の長男だったんですね。おじいちゃんおばあちゃんから、父の結婚していない兄弟まで含めると、最大15人ぐらいで住んでいました。スーパー大家族です(笑)。

親とご飯を食べた記憶がほとんどないんですよ。子ども6人でキッチンのテーブルを囲んで食べていた。親は隣の居間で食べていて。テーブルマナーなんて全然なかったですね。

でもその分、いとこたちと毎日のように遊んでいて。ものを買って遊ぶんじゃなくて、「今あるもので遊びを考える」みたいな文化が自然とできていたんです。ピンポン球とペットボトルがあれば野球ができるよね、みたいな。今の企画力って、たぶんそこから来てると思います。

——家族の中でどんなキャラクターでしたか?

本間さん:王様でしたね(笑)。長男でしたし、周りが絶対反発しないというか、そういう感じで育ちました。両親の仲がよくなくて、子ども心に複雑な思いはありましたけど、基本は自由に過ごしていましたね。

最下位から学年トップへ——彼女がくれた「勉強のスイッチ」

——学校ではどんな生徒でしたか?

本間さん:中2の進路相談のとき、先生に「近くの普通科に行きたい」って言ったら、「無理だよ」って返ってきたんです。それぐらい勉強ができなかった。それで工業高校に進みました。

でも高1のときに彼女ができたんですよ。相手は都内の女子校の生徒で、めちゃくちゃ真面目なんですね。試験前になると会ってくれないんです。「一緒に勉強するなら会うよ」って言われて、そこから僕、勉強にハマり始めた(笑)。高2の終わりには学年トップになって、推薦で東京電機大学に進学しました。工業高校から大学に行けるのは学年に数人という枠で、英語でごぼう抜きしましたね。

20歳で家出、パチンコ屋から始まった社会人生活

——大学はどのように過ごしましたか?

本間さん:2部(夜間)だったので、昼は働いていました。寿司の配達、コンビニ、引越し、叔父の電気工事の会社でのバイトなど、いろいろやりましたね。

20歳のとき、父と大喧嘩して。教会のことで「お前は何もしてない、出て行け」と言われて、「わかりました」って原付に乗って、その日のうちに友達のところに転がり込みました。人生で一番重い意思決定でしたね。家族とも一切連絡を絶って、そこから友達との生活が始まる。

友達がパチンコ屋に勤めていたので、自分も入れてもらって。時給が当時で1450〜1500円ぐらいで、バイトリーダーもやって月20何万か稼いでたんですけど、30代になってもそこにいる先輩を見て「これはまずいな」と感じ始めたころ、ちょうどバイトの先輩がIT企業に就職したんです。就職氷河期で300社受けてようやく入った会社でしたけど、「誰か来ない?」って声をかけてくれて、「じゃあ行きます」と(笑)。

ITのブラック企業で鍛えた「ハードワーク筋」

——IT企業ではどんな仕事を?

本間さん:最初に入った会社は研修制度がしっかりしていて、ビジネスマナーから酒席での振る舞い方まで教えてくれる会社でした。そこから転籍して健康保険組合のシステム開発をする会社に入りました。当時のITって、もうブラック全盛期でして。朝7時に出社して終電で帰る、が普通でした。泊まり込みもあって、最後のほうは本当に頭がおかしくなりかけた(笑)。プログラマーさんが叫び出したりとか、タイピングの音で精神状態がわかるとか、そういう職場でしたね。

でも今振り返ると、そのブラック経験はめちゃくちゃよかったと思っています。約束を守ること、根性、体制……そういうものが身についた。今うちのCRMシステムも今は僕が組んでいるんですが、それもこのころのプログラミング経験があったからこそです。

父の「夢がある仕事だよ」——保険業界への転身

——なぜ保険業界に入ったんですか?

本間さん:ITで限界を迎えていたころ、おじを経由して父から「そろそろ戻ってこないか」という連絡があって。父は個人事業主で保険の代理店をやっていて、「一緒にやってくれないか」という話でした。

「どんな仕事?」って聞いたら、「夢がある仕事だよ。億が動く」って(笑)。今考えると設定保険金額の話だったんじゃないかと思うんですよ。個人賠償でも補償額は億ですから。でも当時の自分には「保険って夢があるんだ!」と聞こえて、「じゃあ一緒にやろう」となった。

当時、日新火災という損保会社の研修制度がありまして。2年間、保険会社の人間として研修を積んで、そこで獲得したお客様を持って代理店に戻るというシステムです。24歳でその研修生になりました。

設立半年で会社が消えた——父の判断ミスが引き起こした廃業

——研修後はどうされたんですか?

本間さん:研修が終わったタイミングで、父と、もう一人の代理店仲間の3人で株式会社アイプラウドを設立しました。ところが半年も経たないうちに、父がかつて個人事業主時代に扱っていた自動車保険の案件で問題が発覚したんです。

あまり内容は書けないのですが、代理店の代表者が保険業法違反をすると代理店免許が取り消されるので、3人みんな保険が売れなくなって、売上がゼロになる。私は個人事業主として受け皿を作ってお客様を引き継いだんですが、今度は事故があるたびに調査会社をガンガン入れられて。お客様に迷惑をかける状況になってしまって、お客様を守れないと判断し、別の代理店に移ることにしました。

収入ゼロ、5人の子ども——「先が見えない1年間」

——7年間の代理店活動を経て独立しようとしたときにも、試練があったとか。

本間さん:そうなんです。別の代理店で7年間活動してかなりの成果を出して、「独立しよう」と準備を整えた。元の代理店店主にも、主要なお客様にも話を通して、みんなからOKをもらっていました。会社も登記して、事務所も借りて、あとは免許の登録だけ、という段階まで来たんです。

そこへ突然、前の代理店店主から弁護士経由で内容証明が届きまして、ほぼ一年間営業ができませんでした。子どもが5人いて、妻もいる。銀行の融資も、免許がないと受けられない。巣鴨信用金庫がプロパー融資をしてくれたり、親戚やおじに頭を下げてお金を借りたりして、首の皮一枚でつないでいました。先が見えないままお金がどんどんなくなっていく恐怖が、人生で一番きつかったですね。

それでもどん底の1年間、私を信じて支えてくれた妻には本当に感謝してます。

——どうやって解決したんですか?

本間さん:顧問税理士の同級生の紹介で、コンプライアンス分野で日本トップクラスの弁護士さんについていただいたんです。日本の有名な事件の後処理をされていた方で。その弁護士さんが、給与の先取特権という法律上の弁護士さんの奇策で、相手も観念して、ようやく免許が帰ってきました。

「許します」を100回——その日から仕事が溢れ始めた

——この激動の時期を乗り越えた背景には、内面的な変化もあったとか。

本間さん:実は独立の前の7年間、父との関係はずっとギスギスしていて。ある日、大喧嘩の勢いでガラスに足を突っ込んでしまって、動脈を切って死にかけたんです。今も足首のところに傷が残っていて、神経がつながっていないので歩き方が少し違います。入院しているとき、さすがにいろいろ考えさせられました。

そのころ、ある本に出会いまして。「許します」という言葉を一日100回言いなさいというんですね。それを実践して、父に直接謝りに行ったんです。「自分が前世でやったことが返ってきているんだ」と思えるようになって、本当に心の底から許せた感覚があった。

その翌週から、もう営業しなくても仕事が入ってくるようになったんですよ。当時の保険会社内の(短期成績で)日本一の成績を出すような結果になって。あの経験から「許すことで人生は変わる」と確信して、今度はそれを人に伝えていきたいという思いが、この会社を作ったひとつの動機でもあります。

弟たちと「企業」へ——家業ではなく、理念で動く組織を

——現在の会社体制について教えてください。

本間さん:令和元年7月に株式会社ベル保険事務所を設立しました。損害保険3社(損害保険ジャパン、セコム損害保険、三井住友海上火災保険)と生命保険4社(ソニー生命、メットライフ生命、SOMPOひまわり生命、ジブラルタ生命)を取り扱う総合保険代理店です。

今は次男、三男、四男と一緒にやっています。三男は損保ジャパンの研修制度で奈良支社に入り、日本一を獲って、今は奈良支社の担当です。東京に3名、奈良支社に2名の体制ですね。

弟たちに入ってもらうときに「家業にはしないよ、企業にする」という話をしっかりしました。兄弟だからではなくて、理念で動く組織にしたかったんです。当初は売上が上がるまで低い給与でお願いしてしまいましたが、それを引き受けてくれた弟たちには本当に感謝しています。言いたいことを言い合える信頼関係がある分、家族経営の強みはすごく感じています。

「岩戸が開く賑やかさ」——天岩戸の神話に込めた思い

——ミッション・ビジョン・バリューが非常に独特で印象的です。

本間さん:ミッションは「岩戸が開く賑やかさ」です。天岩戸開きという日本神話から着想を得ています。天照大神が岩戸に隠れてしまうと、世の中が暗くなりますよね。今の日本がまさにその状態に見えるんですよ。20歳未満の死因の1位が自殺というのは、これだけ恵まれた国なのに、どこかがおかしい。

その岩戸を開けるほどの賑やかさをもたらしたい。うちが定義する「賑やか」というのは、人と人が助け合い、応援し合える世の中のこと。それを実現するために私たちがどんな存在でいるかがビジョン、「日の丸応援団」です。太陽のような暖かさと明るさをもってチャレンジャーをで支えたい。保険だけでは限界があるから、社内はもちろん弁護士など専門家も含めた応援団のチームをつくりたいと思っています。

バリューは5つ。「素クラム」(素の姿で協力する最高のチームワーク。一人では乗り越えられない壁も力を合わせて乗り越える。)、「ジャガイモ」(蒔いたところから生えるとは限らない。いい種をまき続ける)、「心ある一流」(温かい心を持った一流を目指す)。「満足さん」(現状への感謝、そして相手を満足させる)。「恐怖の即レス」(怖いと思うほどの即レスを)。そしてこれら全体を貫くコンセプトが「弥栄(イヤサカ)の鐘」です。「イヤサカ」はますますの繁栄という意味で、お客様の繁栄を通じて日本の繁栄に貢献していく——そういう鐘のような存在でありたいと思っています。

チャレンジャーに出会いたい——種まきの成果が芽吹き始めた今

——今後の展開について聞かせてください。

本間さん:東京商工会議所板橋支部で、唯一損保ジャパンのサポート代理店になりました。生まれ育った板橋で少しずつご縁が広がってきている実感があります。

チャレンジャーと出会いたいんですよ。挑戦している人を支えたいのに、自分も挑戦者でなければならないと腹に決めているので、どんどん種をまいていきたい。ジャガイモのように。思わぬところから芽が出てくる、まさに今その時期だなと感じています。

チャレンジャーの方に保険を通じて寄り添いながら、その先に日本が少し明るくなる。それが、うちの「弥栄の鐘」です。

■会社概要

会社名:株式会社ベル保険事務所

設立:令和元年7月

代表取締役:本間 理久(ほんま さとひさ)

事業内容:総合保険代理店(損保3社・生保4社)

所在地:東京都板橋区東新町2-56-2氷川ビル2F

取材:河本龍真 文:佐藤大遥(株式会社One Rep)

#経営者インタビュー#保険代理店#板橋#家族経営#人生ぶち上げch

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